2010年9月18日

オランダ風説書

オランダ風説書(おらんだふうせつがき、阿蘭陀風説書)とは鎖国中、幕府がオランダ商館長に提出させた海外事情に関する情報書類である。徳川政権が世界(特にヨーロッパ)について確実な情報を得るために利用したメディアである。

1600年、イギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンが来日し、徳川家康と面会。リーフデ号事件。これが契機となって、イギリスとオランダの2国との貿易が開始された。イギリスは、1613年、オランダは1609年。

1612年幕府は人民統制のため禁教令を出す。また、貿易統制のため1616年貿易地を平戸、長崎に限定した。しかし、1624年アジア地域におけるオランダとの貿易競争に敗れたイギリスが平戸から商館を引き上げ撤退してしまう。1625年にはキリスト教布教国として、また、それによって自国が侵略される恐れがあるとしてスペイン船の来航を禁止した。1639年ポルトガル船の来航も禁止され、鎖国は実質的な完成を遂げた。そんな中、オランダが、唯一のヨーロッパの貿易国として生き残った。

幕府は、オランダに貿易を許可する交換条件として、カトリック諸国に関する情報提供を義務づけていた。さらに幕府は、オランダだけでなく、唐船からも情報を入手し、それらを比較検討し、情報の信頼性を評価した。

17世紀の日本人が「情報」というものの価値を、きちんと把握していたのだ。戦国時代に覇を競った人々だからこそ身に着いた危機意識なのか?

18世紀になると、「鎖国」が規範意識として定着し、世界情勢に関する情報提供に、オランダ人の競合相手もいなくなる。風説書はマンネリ化するが。そんな中で、日本にとっての脅威は、カトリック勢力から「西洋近代」という得体のしれないものに移り変わりゆく。

19世紀、1830年代以降は、アヘン戦争、ペリー来航など、東アジア海域が激動の時代に突入する。数々の重要な「別段風説書」が作られたが、年1回の「風説書」は全く意味をなさなくなる。ひとつのメディアの時代が終わりを告げた。

「アヘン戦争」「ペリー来航」「フランス革命」などをあり、それぞれに興味深い。オランダ風説書というシステムが日本に何をもたらしたか?当時、オランダがヨーロッパ随一の情報集積地であった。オランダには、17世紀初頭からヨーロッパ諸国の情報を収集・提供する定期刊行の新聞が既に生まれていた。

オランダ東インド会社は、日本からの 要請の有無にかかわらず、時事情報を各商館に配信していたのだ。日本はそこまで知っていたわけではないだろうけど、世界情勢の窓口として、実に的確な国を 貿易相手国に選んだのだ。

オランダ東インド会社(おらんだひがしいんどがいしゃ、正式には連合東インド会社)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられていた。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会と呼ばれた。