焚書は、書物を焼却する行為である。
特定の知識以外を排斥する他、特定の思想、学問を排斥する場合がある。歴史上では秦や、ナチス・ドイツ・GHQにおける行為が知られる。
▽始皇帝の焚書▽
秦の始皇帝は紀元前213年に李斯の提案にしたがって、焚書を行った。その内容は、次の通りであった。
1、秦以外の諸国の歴史書の焼却
2、民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する
3、30日以内に、守尉に渡さなかったならば、入墨の刑に処する
4、法律は、官吏がこれを教える、民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと
始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠すなどして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され学問の研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがちであるが、他の諸子百家の書物も燃やされたことにも留意するべきであろう。
当時は、紙が発明されていなかったので、もっぱら木簡や竹簡に文章が書かれていた。そのため、壁に埋めて、上から塗りこめても書物が劣化する可能性は低かった。
▽ドイツの焚書▽
ナチス・ドイツの焚書、1933年。
ナチス・ドイツの行った焚書では、カール・マルクスなどの社会主義的な書物や、ハインリヒ・ハイネ、エーリッヒ・ケストナー、ハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、エーリヒ・マリア・レマルク、クルト・トゥホルスキー、カール・フォン・オシエツキーなどの、「非ドイツ」的とみなされた多くの著作が燃やされた。
また、売れない画家としての前歴を持つヒトラーは、それまでの芸術の規範を飛び越えた近代的な芸術を退廃芸術として弾圧し、それに代わって肉体美や農村などを美化した「古き良き」芸術を大ドイツ芸術展を開いて称揚した。現在ではそれらは単に古臭い芸術であったと評される。
▽GHQによる日本での焚書▽
太平洋戦争終結後日本を占領統治したGHQにより、戦争を肯定する内容や、武士道等の本が大量に焚書処分された。
ここで言う焚書とは、書物を焼き払う行為を指すのではなく、「没収宣伝用刊行物」に指定することを指す。西尾幹二によると、GHQが7769点の指定リストをつくったとされる。
1946年(昭和21年)、GHQが「宣伝用刊行物の没収」と題するタイプ打ちの覚書を日本政府に送ったことに始まる。書物の没収は全国的に行われたものの、一般家庭や図書館にある書物は没収対象にはせず、書店や出版社から、あるいは政府ルートを通じ、国民に知られないよう秘密裏に行われた。
溝口郁夫による『没収指定図書総目録』によると、自社の出版物を多く廃棄されたベスト3は、
1位、朝日新聞社・・・・・・・・・・140点
2位、大日本雄辨會講談社・・・・・・・83点
3位、毎日新聞社・・・・・・・・・・・81点
である。
焚書