1988年12月末、中共政府は、植民地チベットの新しい総督をラサに送った。胡錦濤である。その時、46歳。貴州省党委員会書記から、チベット自治区党委員会書記への異動だった。
中共による軍事占領下チベットでは、常に漢族がナンバー1の党委員会書記に就き、チベット人の自治区主席はナンバー2である。西洋列強の植民地支配システムと同じで、中共体制下では永遠にその支配構造は変わらない。
それまで歴代の植民地チベット総督はすべて軍人だったが、胡錦濤に軍歴はなかった。初めての「文民総督」出現だ。皮肉なことに、その非軍部出身者が着任後まもなく、狂気の軍政を敷くことになる…
胡錦濤のチベット総督就任は、左遷人事ではなかった。情勢不安定なチベット地域への転任は、北京の老人達から与えられた“出世のチャンス”でもあったのだ。
46歳の男が支配者となった時、チベットは揺れていた。名だたる高僧の相次ぐ公開処刑で、チベット民衆が動揺。蜂起の形で反発が高まった。中共侵略政府の恐怖政治が社会不安をもたらしたのである。
そこに、新顔の総督が最悪の決定打を放つ。
チベット人には欠かせない正月の重要行事を一存で潰したのだ。チベット暦新年(ロサ)明けに行なわれるモンラム(大祈祷祭)。89年2月6日、胡錦濤は突然、モンラムの禁止を宣言した。
理由は、モンラムに向けて地方から多数の僧侶がラサに集まるのを防ぐ為だった。これに僧侶と市民は一斉反発。翌2月7日には、チベット密教の総本山ジョカン寺に市民が続々集まり、猛抗議の声をあげる。
胡錦濤は直ちに軍責任者を含む緊急党委員会を招集し、情勢を分析して対策を協議した。同時に、党中央にラサの緊迫した状況と政策提案を報告した。胡錦濤は政策提案の中で、軍の出動準備と出動命令の権限を自分に与えてくれるよう党中央に求めた。
文民職の党書記が党中央に対して、軍に対する命令権を求めるなど、前代未聞のことだった。
胡錦濤の異例の要請は受け入れられ、そして、ラサは修羅の棲む地と化した。
1989年3月5日。モンラムが禁止されたジョカン寺に多数の僧侶と市民が参集した。2008年3月14日に装甲車が群衆の中に突入し、チベット人を轢き殺したのも、このジョカン寺の周囲だった。
彼らはチベット民謡「雪国の理想」などを歌いながら街頭に繰り出す。中には雪山獅子旗を手に持ち、チベット独立を訴える者もあったという。平和的な行進の参加者は次第に膨れ上がり、ラサの街は熱気を帯びた。しかし、そこで胡錦濤は非情の決断を下す。
午後1時40分、胡錦濤は前述した党中央から送付された『チベット情勢と取るべき対策』に従って武装警察を主体とした武力鎮圧を発動した。
チベット人の歓声は銃弾の中に消え、代わりに負傷者のうめき声、泣き叫ぶ声、恐怖のあまり逃げまどう人々の叫び声などが響いた。ラサの街は一瞬のうちに血と涙で覆われた。
胡錦濤