清国統治時代の台湾では中央山脈や東部の広範囲には、支配は及ばず。何故ならば、高砂族と称される生蕃(せいばん)が清の侵略に抵抗し、軍隊が来襲しても撃退するほどの戦闘能力を持った集団だったからだ。
日本の統治下でも、日本軍は3000メートル級の高山での行動は経験がなく、5回に渡って探検し準備し、1914年(大正3年)にはいって本格的に帰順していない蕃の討伐に向かう。しかしながら。最後までタイヤル族は抵抗した。
昭和5年10月26日夜半から翌朝にかけ、武装した霧社のタイヤル族1200名あまりが、各地駐在所を襲い、宿直員を殺害し、銃器、弾薬を強奪。27日朝、暴徒は地元の公学校(小学校)へなだれ込み、ちょうど本島人(台湾人)と内地人の児童による合同運動会が開かれていましたが、修羅場と化した。児童父兄含む約140人の内地人が惨殺される。
事件の首謀者はモーナ・ルダオ。事件の数日前、部族のある家で結婚式が行われていた。たまたま、通りがかった巡査にも酒を振舞おうと子供が巡査の手を引っ張ったところ、巡査はその手を振りほどき、なおかつ、ステッキで殴打しました。誇り高き部族への侮辱と感じ取ったルダオたちは、日ごろの圧政への義憤を爆発、巡査を袋叩きするとともに、全社(村)に駐在所襲撃を呼びかけたというのが発端と言われている。また、ルダオの妹が日本人巡査の妻となったものの離縁され、自殺したための私怨という説もある。
総督府はこの事件の鎮圧に軍、警察を動員し、親日派タイヤル族とともに討伐を行う。首謀者モーナ・ルダオは山中で自決、蜂起側は644人の死者を出して事件は収束した。この事件で台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が引責辞任している。霧社のタイヤル族は平地の川中島に強制移住され、稲作を営むようになる。
大東亜戦争に入るとこの霧社のタイヤル族からも志願が出た。一説によると霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われている。高砂義勇隊は大東亜戦争中、最も皇軍に忠誠をつくし勇敢に戦い日本軍最強とも言われた。
高砂義勇隊伝